小説仮置き場

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第一次世界大戦と高度成長

 一九世紀の始まる頃、世界最大の工業国であり同時に世界最強の国家であったのは間違いなくイギリスであった。しかし、二〇世紀の始まる頃世界最大の工業国になっていたのは、南北戦争の消耗から立ち直った合衆国であり、次いでドイツであった。それに伴い世界史の主役の座は、観客が容易に認識し得ないほどゆっくりと、しかし着実に交替しつつあったが、第一次世界大戦がそれを加速させた。
 ヨーロッパが空前の戦災を被り、たとえ一時的にであったとしてもその影響力を後退させる中、戦争による直接的被害を受けなかった日本、合衆国、南部連合の三国においては純粋に経済面だけをみれば、大戦は惨事ではなくむしろ福音で三者三様に経済的発展を遂げることとなるのである。
 中でももっとも大きな変貌を遂げたのが日本であった。日本は大戦を契機に後に「第一次高度成長期」と呼ばれる経済成長期に入る。それは二〇世紀に日本が三度経験することになる高度成長期の最初のものであったが、大戦が始まった一九一四(大正三)年と世界恐慌で第一次高度成長期が終わる一九二九(昭和四)年を比べると、日本の経済規模は四倍以上に拡大していた。それは成長というより、膨張といった方が相応しいような拡大ぶりであった。
 第一次高度成長を牽引したのは軍需(軍艦や銃器はもとより被服など多岐にわたった)、鉱業、鉄鋼業などの産業であった。第一次世界大戦の四年間で日本が欧州まで送りこんだ兵力は陸海軍あわせて四〇万人以上に上った。その膨大な兵力と彼らを支える武器・弾薬、食料、医薬品などの物資と、それらを地球の裏側まで送りこむための船と船団護衛用の駆逐艦がいくらでも必要であった(さらに日本は他の連合国にも武器・弾薬などの物資を供給していたし、連合国やその植民地で不足していた民需品も売らねばならなかった)。第一次世界大戦は日本にとって「他人の戦争」であったが、少なくとも兵站的には日本史上最大の戦争であった。
 当時の日本の生産力ではその膨大な需要を満たすことはできなかったが、通産省と陸海軍省主導で「戦時産業特別措置法」が制定され、「戦時金融公庫」が開業した。これは戦時国債を財源として、造船や軍需産業とその原料を供給する鉄鋼業界と鉱山業界に低利で融資を行うものであった。この政策には戦争終結後の生産設備のダブつきを懸念する声があったが、結果的には杞憂となった。戦時景気と戦後も続いた高成長は、拡張された生産設備を必要とするほどに日本経済を拡大させたからである。
 また、第一次世界大戦の戦時特需は日本の製造業を質的に向上させるきっかけとなった。それまでの日本の製造現場においては統一的なマニュアルがないところが多く、品質は工員の経験と技量によるところが多かった。しかしながらそれは、一定の品質の製品をとにかく大量に供給することが求められる戦時需要には不向きであった。一九一六年(大正五年)、通産省経団連の音頭で大学の研究者と主要企業の技術者が集まり「日本工業会」が設立され、企業横断的に品質の底上げと均質化に向けた取り組みが始まった。
 結果的にこの取り組みは戦争中に十分な成果を上げるには間に合わなかったが、製造業を初めとする日本企業に属人的に品質を維持・向上させるのではなく、企業全体でマニュアル化や社員教育を通してそれを行うという「品質管理」という概念を根付かせたという点で大きな意味を持っていた。これは世界に先駆けた概念であったが、今なお続く「日本品質」、「日本ブランド」を生みだすこと一因であったといえるだろう。
 第一次高度成長は鈴木商店や内田財閥(ともに神戸)などに代表される新興財閥の勃興をもたらしたが、日本の経済史的には安定した中間層と内需が創出されるきっかけとなったという意味で、より重要であったと言える。それまで日本の経済の成長は外需頼みであったが、造船、鉄鋼を中心に膨大な需要とそれに応えるための雇用が生まれた。その影響は周辺の産業にも順次波及し、都市部を中心に日本史上初めてともいってよい層の厚い中間層を生みだすこととなった。所得の増えた彼らは電気アイロンやトースター、電気釜(の元となった家電)、扇風機、それにラジオや輸入車といった耐久消費財を購入し、映画や芝居などの娯楽にも興じた。さらにちょうど大戦の始まる直前から、阪急電鉄が神戸や大阪の郊外で宅地開発にのりだし、日本初となる住宅ローンでの販売を行っていたから余裕のある者は住宅を購入したし、サラリーマンが家族そろって都心のデパートに休日に出かけるような光景が見られるようになった。基幹産業から娯楽産業まで幅広く波及した経済効果がさらに多くの中間層を生みだすという好循環が生まれた。
 それまで外需頼みで不安定なところのあった日本経済が、大戦終結後も一時的な落ち込みを経ただけで、なおも高成長を続けることができたという事実が底堅い内需が創出されたことを証明していた。もちろん、安定した中間層と内需の存在が、政治的な安定にとってプラスであることは言うまでもない。
 一方で第一次高度成長ではその恩恵は都市部を中心としており、農村部では「地主と貧しい小作人」という構図が相変わらず存在し続けていたし、都市部でも全ての人が成長の果実を享受したわけではなかった。第一次高度成長は日本という国に鮮烈な二重構造を生みだした(あるいは存在していたものをより鮮明にした)。そのことが一九三六(昭和一一)年の「桜会事件」に象徴されるような急進的な国家改造の動きを生じさせる一因になるのであるが、こうした問題の解決は後の第二次高度成長や社会改良運動を待たなければならなかった。