小説仮置き場

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黄土の暗闘 ―中国大陸における日英と合衆国関係Ⅰ―

一九世紀後半から中国大陸は列強角逐の場となり、帝国主義の縮図と化していたが、辛亥革命によって清朝が倒れた後、その争いは質的な変貌を遂げた。すなわち、清朝時代は租借や割譲によって直接的に領土や勢力範囲を拡大することを志向していたのに対し、清朝滅亡後の内乱状態の中で、列強は内戦の当事者たちを支援することで自国に有利な政権を中国大陸に樹立することを目的とするようになっていったのである。
 その中でも特に熾烈な戦いを繰り広げたのが日英と合衆国、そしてソ連であった。特に日英と合衆国のそれは南北戦争後の合衆国の伝統的な反英感情、日米の太平洋における勢力争いや貿易摩擦とあいまって、両者の対立を抜き差しならないものとした、その大きな要因の一つとなった。
 南北戦争の結果、南北の再統一に失敗した合衆国にとって、南部連合とは脇腹に突きつけられたナイフに等しかった。さらに戦争中に南部寄りの中立であったイギリスとの関係も悪化したから、イギリスの保護領であるカナダも含めて、合衆国は三方向に仮想敵国を抱えることとなってしまったのである。このような状況下で北米大陸の外に目を向ける余裕などあろうはずもなく、合衆国がアジア・太平洋に本格的に目を向けたは、二〇世紀初頭のセオドア・ルーズヴェルト政権以降のことであった。「遅れて来た帝国」日本よりもさらに遅れる形となった合衆国が、すでに列強諸国による分割が進んでいた中国大陸に進出することはむろん容易ではなかったが、合衆国はその機会を虎視眈々と窺っていたのであった。

○北洋軍閥の分裂と安直戦争
 一九一六年六月、中華民国大総統にして北洋軍閥の首領であった袁世凱が死去した。前年一二月に皇帝即位を宣言したし、国号を「中華帝国」と改めたものの、華南では粱啓超ら護国派が蜂起。鎮圧にも失敗し、北洋軍閥内部からも反対の声が相次ぎ一六年三月に入って撤回を余儀なくさた、その失意の中の死だった。
 袁の死後、北洋軍閥を掌握できるものはおらず、紆余曲折を経てその勢力は段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派に分裂した。さらに華南には唐継堯の雲南軍閥と陸栄廷の広西軍閥などの有力な勢力があった。また、東北では張作霖奉天軍閥が割拠しており、中華の統一はいまだ遠くあった。
 安徽派の段祺瑞は国務院総理(首相)と陸軍総長(陸相)の座にあり、直属の兵力こそ乏しかったものの、軍権を掌握していることが強みであった。対する直隷派の馮国璋は大総統代理の地位にあり(袁世凱死去後の大総統であった黎元洪は段との政争に敗れて解任されていた)、兵力こそ段に劣っていたが彼に忠誠を誓う直轄軍を持っていることが強みであった。
 一九一七年九月、孫文らが唐継堯、陸栄廷と連立して広東政府を樹立すると、その対応をめぐって両者の対立はついに表面化した。武力による討伐を主張する段祺瑞と平和的解決を唱える馮国璋に国論は分裂したのである。段は国会で多数派工作を行い、馮を大総統代理から解任した。これにより両者の対立は決定的なものとなったのである。
 直隷派と合衆国が接近したのは一九一八年三月、ヴェルサイユ条約の締結が契機であったといわれる。一九一七年に中華民国は連合国側に立って第一次世界大戦に参戦した。参戦国の一つとしてパリ講和会議にも代表を送り込み、ドイツが租借していた膠州湾の返還を求めたが容れられず、膠州湾租借地は日本の引き継ぐところとなった。これに対し中国では学生を中心に講和会議を主導したイギリス、膠州湾を領有した日本、そして講和条件を受諾した段祺瑞の政権への不満が高まり、それは抗議デモ、日本やイギリス製品、企業へのボイコット、あるいはストライキや暴動として現れた(この一連の動きを一八年五月四日に北京の天安門広場で行われた大規模なデモにちなんで「五・四運動」と後に呼ばれることになる)。
 当時の中国大陸における主流は袁世凱政権とその後継たる段祺瑞政権であり、日英はこれを支援していた。しかし五・四運動でその権威は傷つき、世論の支持は低下した。合衆国はこれを好機として、雌伏していた馮国璋に接近し支援したのである。
 馮国璋は翌年病死したが、直隷派は部下の曹錕と呉佩孚に引き継がれた。そして一九二〇年、安徽派と直隷派はついに武力をもって激突した(安直戦争)。二週間にわたった戦闘は最初、兵力に勝る安徽派の優位で進んだ。しかし、馮国璋の遺した精鋭軍が盛り返したことで、段祺瑞陣営からは離反が相次いだ。もともと段の独裁的な振舞いに不満を持っていた軍の高官も多く、その忠誠と結束は決して強いものではなく、土壇場でその脆さが現れた形となった。
 敗れた段は北京を逃亡し、天津の日本租界に逃げ込んだ。こうして黎元洪を大総統に据えた上で、実権は曹錕と呉佩孚を中心とした集団指導体制が成立した(直隷派政権)。こうして合衆国が支援する勢力が政権を掌握し、少なくともこの時点では合衆国が日英に対し勝利をおさめた。

○直隷派の内紛
 直隷派が北京政府を掌握し、合衆国が歴史上初めて中国大陸における列強間パワーゲームの主導権を握ったかのように思われたが、事態はそれほど単純なものではなかった。華南では孫文を初めとする革命派が地元の軍閥と連合政権を組んでいたし、満洲には張作霖がいた。また、北京政府自体が直隷派をはじめとしたいくつかの軍閥の集合体であり、その団結は甚だ心許なかった。さらに事態をややこしくしていたのが、直隷派内部にも分裂が生じつつあることであった。
 段祺瑞を追い落とした直隷派は黎元洪を大総統に据え、曹錕が国務総理、呉佩孚が陸軍総長という体制で政権を発足させたが、曹と呉の間で路線対立が生じつつあった。曹が直隷派による独裁体制を確立し、武力による全土の統一を志向したのに対し、呉は華南の孫文らと妥協し、速やかな統一政権の樹立を主張した。
 北京政府内では相対的に最強の武力を保有する直隷派ではあったが、必ずしも広汎な支持を得ているわけではなかった。そうした中で直隷派が独裁的に振舞えば再度の内紛を呼ぶ恐れがあり、呉はそれを懸念していた。対して、曹に言わせれば呉の主張するような「話し合いによる統一」など所詮は理想主義者の空理空論であった。実力で統一してこそ、真に盤石な政権ができるのであった。北京政府全体では呉を支持する者が多かったが、直隷派内部では曹が強い支持を得ていた。こうして直隷派は曹錕の保定派と呉佩孚の洛陽派に分裂したのである。
 事態が動いたのは一九二三年のことでことであった。曹錕は国会に働きかけ(武力による示威も含まれる)、大総統の黎元洪を解任し、自らの大総統就任と翌年から華南への出兵を発表した。同時に国会を無期限閉会し、独裁体制を確立したのである。
 曹は呉を陸軍総長から南征軍司令官に転出させた。陸軍の最高責任者から一方面軍司令官への転任であり、事実上の左遷であった。そこには呉を首都・北京から出すことで、政治的な策動を抑込む意図があったといわれている。この時期、華南に樹立された広東政府では内紛が勃発しており、南征軍を迎え撃つ余裕はなかった。したがって南征が実行されていれば北京政府による中華統一が成功していたかもしれなかった。
 しかし、ここから事態はさらなる急転を見せ始める。呉は南征軍司令官に就任する条件として、司令部の幕僚を自身で選ぶという条件を付け、曹はそれを了承した(保定派の軍人も司令部と前線指揮官の双方に配置していた)。そして翌二四年、三路に分かれて南征軍は進撃していった。呉の本軍はもっとも東よりのルートを進んでいたが、済南付近まで進撃したところで軍を反転させ、「不正に大総統に就任した曹錕の征伐」を中華全土に向けて宣言したのである。
 これを知った曹はむろん激怒し、直ちに呉の追討を宣言。他の南征軍にも呉を攻撃するように命じたが、その命令は実行されなかった。残り二路の南征軍は呉の宣言を知ると南進を止め、かと言って呉を攻撃するでもなくその場に停止した(ちなみに南征軍にいた保定派の将校たちは拘束された)。つまり、直隷派内部での支持基盤の弱さを自覚していた呉は、四年かけて北京政府内部と軍内での支持を広げていたのであり、南征がなくともいずれ曹錕を追い落とすつもりであった(呉が取り込みを図った中には旧安徽派も含まれており、呉は天津で隠棲していた段祺瑞にも接触している)。それが南征軍の司令官として実戦部隊を与えられたことで、はからずもその好機を得た形であった。
 曹錕は自ら軍を率いて、呉の軍の迎撃にあたり、両軍は天津郊外で激突した(天津まで呉の進軍を許したのは、曹錕が自ら出撃するか迷い、迎撃が遅れたためとの説がある)。兵力では曹が優勢であったが、戦闘の最中に保定派の将軍の一人であった馮玉祥が寝返り、曹錕の本営を突いたため、戦闘は呉の勝利に帰結した。曹は捕えられ北京で軟禁された。
 後年、元洛陽派の高官のうちの何人かが証言したことであるが、呉のクーデターの背後には合衆国の支援があった可能性がある。独裁的な傾向を深める曹を合衆国も切りたがっていたということかもしれないが、事実としては新たに発足した段祺瑞を大総統とし、呉佩孚を国務総理とする政権は合衆国の支援を受け続けたのであった。