小説仮置き場

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蔣介石の登場 ―中国大陸における日英と合衆国関係Ⅱー

 華北袁世凱の後継者たちが内訌を繰り広げている頃、華南では後の中国史において重要な役割を果たすことになる、一人の男が歴史の表舞台に登場しつつあった。男の名は蔣介石。一介の軍人から立身し、一時的に中華の南北を統一し、二つに分かれた中華の片割れに君臨し続けることになる男である。次に蒋介石を中心に華南の政局、そして北伐を経て南北が統一されるまでを見ておこう。

蒋介石の経歴
 蒋介石は一八八七(光緒一三)年、清の浙江省奉化県に生まれた。同じ年に「一八八七年黄河大洪水」が起こり、死者九〇万人以上という中国災害史上最悪の被害を出している。
 蔣の生家は塩と茶を商う裕福な商人であり、父と祖父は当時盛んになりつつあった反清運動に資金を提供し、自らも積極的に運動に参加していた。母の王氏も富裕な商家の出であったが、質素を好み、子どもたちの教育には特に熱心であった。蔣自身も六歳頃から私塾に通ったり、家庭教師を付けられたりして四書五経を初めとする漢籍を学んだ。蔣の学業は優秀であったとされ、国民党が編纂した蔣の伝記によれば九歳で四書を諳んじたという。
 このまま行けば蔣も科挙を受けて清朝のエリート官僚となっていたところであったが、八歳から九歳の頃にかけて父と祖父を相次いで喪ったことが、あるいは蔣介石という人間の運命の分岐点であった。大黒柱を失った生家はたちまち没落し、当時の封建的な清朝の地方社会にあっては母子家庭となった蔣家の立場は弱かった。後年蔣自身もこの頃に腐敗した管理や村落社会から迫害された体験を述懐しているが、一〇歳前後の多感な時期のこの経験が、蔣介石をして熱心な革命派軍人とならしめた大きな要因であったのかもしれない。
 一五歳の頃、当時通っていた私塾の教師の娘・毛福梅と最初の結婚をする。この結婚は蔣に一男(蔣経国)をもたらすが、福梅が後に仏門に帰依したこともあり、実質的な結婚生活は短かった。
 蔣介石が革命思想に直接触れたのは寧波の煎金学堂で学んだ折であった。ここは従来の私塾などとは違って、西洋の法律や時事問題などを講義する新式の教育機関であったが、ここの教師には孫文の同調者が多く、一〇代から二〇代の学生たちに新しい学問とともにその思想を吹き込んだのであった。煎金学堂で学んだ後、蔣はいったん帰郷したが、商人になるように促した親戚たちの反対を振り切って日本留学を決意する。時は一九〇六年、大国ロシアとの戦争をなんとか引き分けで切り抜け、非白人国家として唯一列強の一角をしめつつあった日本は、反清革命運動の一大拠点となっていたのである。
 蔣は来日し、京都の振武学堂への入学を希望した。振武学堂は日本政府が清国からの軍事留学生教育のために設立した専門機関であり、卒業生はそのまま陸軍士官学校海軍兵学校に入学し、その後陸海軍の現場で実習勤務をすることができた。しかし、振武学堂入学のためにはまず清国の保定軍官学校の卒業か推薦が必要であった。保定軍官学校は清朝が軍の近代化の一環として設立した学校であり、外国人教師が学生の教育にあたっていたが、蔣はその資格を持たなかったために振武学堂に入学できず、その年のうちに帰国している。
 蔣は改めて保定軍官学校に入学し、一九〇七年振武学堂への留学を命じられた。彼が日本で触れたものは軍事知識以上に革命思想であった、当時清国から日本には二万人以上の留学生がいたが、そのほとんどは日本で革命派になった。清国留学生の多くは国の将来を担うエリートであったが、彼らは優秀であったが故に国の外に出て故国を相対化する機会と、一定の思想の自由を得ると清朝の行く末に見切りをつけざるを得なかった。また、日本には孫文や黄興など革命派の巨頭たちが亡命してきており、神戸や横浜の唐人街を拠点に活動し革命思想の宣伝に努めていたから、留学生たちがそれに触れたとき革命思想に共鳴するのはある意味で当然の帰結であったともいえる。
 ところで、ここで日本における革命派の状況について簡単に触れておきたい。日本における革命派の支援者は大きく二つに分けられた。孫文らの思想に共鳴した日本人と在日華僑である。在日華僑の多くは江戸時代から神戸や横浜、長崎を拠点に国際貿易に従事していた。彼らは商人として培った情報収集能力と予見能力で清朝を見限りつつあった。彼らにとって革命派への支援(もちろん財政的なものが主であったが)は、慎重に代わる政権への先行投資という面が強かった。
 また、革命派への日本政府への思惑も複雑なところがあった。日本にとって清国は最大の貿易相手国であった。特に日露戦争での大陸における敗北により、日本は海洋交易国家として生きる以外なくなったから、清朝との関係性を悪くするわけにはいかなかった。一方では商人国家らしい嗅覚でやはり清朝の持続可能性を低く見積もっていたら、やはり先物買いとして革命派にも恩を売っておきたかった。日本政府には清朝から革命派を取り締まるように度々要請があったが、日本政府は清朝に「言いわけが立つ程度」に革命派の活動を妨害した。一方で日本人支援者から革命派に提供された資金の一部の出所は日本政府であった。日本政府もまた、商人国家としてのしたたかさと狡猾さとをもって革命派を支援していたのである。
 一九〇五年、孫文らによって神戸にある在日華僑の呉錦堂の邸宅で「中国革命同盟会」が結成された(後に日本政府の干渉で名称を「中国同盟会」に変更)。中国同盟会こそは、後の辛亥革命において革命派の中心をなした組織であり、後の中国国民党の前身の一つとなった。ちなみに呉錦堂は在日華僑最大の豪商であり、その先祖は江戸時代から兵庫の唐人街で貿易商に従事していた。錦堂は後に第一次世界大戦以後の高度成長に乗じて家業を阪神財閥の一角である「呉財閥」として成長させた。彼は孫文の最大の支援者の一人であった。
 蒋介石も再来日後に知遇を得た、同卿の陳其美の紹介で同盟会に入会している。清朝の派遣留学生という立場上、表立った活動はできなかったが彼は同盟会の発行した文書を片端から読み、胸の中の革命思想をさらに燃えたぎらせた。振武学堂卒業後、蔣は陸軍士官学校に入学せず、そのまま新潟・高田の第一九連隊の隊付将校として実習勤務に取り組むことになった。士官学校を経由せず、そのまま現場実習となった理由は明らかではないが、革命思想に強く傾倒していたことが影響した可能性もある。
 さて、日本時代の蔣にとって最大の成果は孫文の知遇を得たことであった。一九一〇年、孫文は在米華僑や合衆国の実業界から支援を得るべく渡米していたが、再び神戸に戻り同盟会の幹部たちと革命蜂起に向けた計画を練っていた。蔣と孫文が会ったのはその頃のことである。陳其美が両者を引き合わせたのであるが、蔣は清朝政府の軍事留学生であり、当時は日本陸軍で実習中の身であった。そこで表向きは陳の私的な門弟として、孫文と陳の会見に同行するという体裁で、両者は会見した。
 蔣は「自分は軍人として孫文の革命に貢献したい」と熱っぽく語ったようであるが、この時は孫文に「少なくとも気持ちは熱い、朴訥とした青年将校」という以上の印象は与えなかった。その蔣が後年孫文の軍事面での腹心になるとは、もちろんこの時はだれも予想し得ないことではあったが、革命前に孫文と陳其美の知遇を得、革命派の中に加われたことは後の蔣にとって大きな政治的資産となるのである。
 一九一一年一〇月一〇日、清国・武昌で清朝軍の兵士が反乱を起こした(武昌蜂起)。辛亥革命の勃発である。革命派の蜂起は華南地方を中心に何度も起きていたが、遂に政府軍からそれに呼応するものが現れたのである。また、反乱と蜂起が伝播していったこともそれまでのものとは違っていた。革命派は幾度とない弾圧にもめげずに清朝軍内と華南の各都市に浸透していたが、その成果が一気に噴出した形であった。
 蔣介石の兄貴分・陳其美も上海で革命軍の指揮をとっていたが、早速蔣に帰国を促す電報を送っている。蔣はこの時、一九連隊での実習中であったが、日本の新聞等で革命のことは知っていた。同じ連隊で実習していた革命派の青年将校たちと帰国の相談をしていた矢先に陳の電報が届いた。蔣は早速、連隊長に帰国を直訴した。当時の日本では革命派に同情的な世論が強かったこともあり、連隊長はこれを許し壮行会を盛大に開いた。その席で蔣は連隊長から水盃を勧められ、「有難くあります!」と言って一息に飲み干した。興奮のためか顔が上気していたという。
 記念に持ち帰った日本軍の軍服が入ったトランク一つを持って蔣が上海の地を踏んだのは、一九一一年一〇月三〇日であった。時に二五歳。歴史の奔流に自ら飛び込もうとしていた。

○革命派軍人
 上海に降り立った蔣は直ちに陳其美と面会した。陳は蔣をして抗洲方面を担当する革命軍第五団(連隊)の指揮官に任じた。革命軍は清軍の革命派と中国同盟会の寄せ集めであり(中国同盟会からして複数の革命組織の寄せ集めであった)、信頼できる人間は少なかった。陳は日本で最新の軍事知識を身につけたこの青年将校を自らの代理とするほどに信頼していたのである。
 一一月三日、陳が上海で蜂起したのに呼応して蔣も抗洲で軍事行動を起こした。連隊とは名ばかりの数百人規模の部隊ではあったが、蔣は人生初の実戦を指揮官として戦った。彼は後方にいるのではなく自ら最前線に立った。
 一二月二日、革命軍が南京を占領した。この頃、内地一八省のうち甘粛、河南、山東、直隷の四省をのぞく一四省が清からの独立を宣言した。清朝は急速に崩壊しつつあった。ちなみに一九一二年三月から翌一三年まで蔣は日本や故郷の奉化県で過ごした。蔣は同盟会内で陳其美と政敵関係にあった陶成章を独断で暗殺した。陶は表向き陳と友好的に振舞い、裏で攻撃していたというが、そういう人物を兄貴分のために独断で暗殺するところに、蔣介石という人間の性格の少なくとも一面が端的に現れているようにも思われる。
 陶成章暗殺のほとぼりを冷ますため日本と故郷にいたので、蔣は中華民国の成立、清朝の滅亡、革命派と袁世凱の妥協による北京政府の成立といった重要な歴史的舞台に居合わせなかったわけであるが、それで政治的に傷つかずに済んだ。歴史に名を残す人物が往々にしてそうであるように、彼もまた幸運の女神に好かれているようなところがあった。
 一九一一年一二月二九日、南京に独立を宣言した各省の代表が集まり、「中華民国」の樹立を宣言した(一二年一月一日)。この政権は孫文を臨時大総統に選出し、彼の理念である「三民主義・五権分立」を理念とすることを宣言したが、九人の閣僚のうち同盟会の会員は三人で残りは清朝の高官であった。さらに北京には内閣総理に任命され、清朝の全権を握った北洋軍閥の首領・袁世凱がいた。さらに東北三省と蒙古も清朝支配下にあった。
 基本的に寄せ集めである革命軍が北洋軍閥を武力で打倒することは困難であり、事態は膠着した。こうした情勢のなかで海外華僑や留学生、さらに国内世論の間でも袁世凱の声望が高まった。同盟会の中からも黄興が袁世凱に書簡を送り、袁世凱に大総統就任を要請している。孫文袁世凱の共和制支持、皇帝退位などを条件に袁の臨時大総統就任を要請した。こうした妥協のできるあたり、孫文はただの理想主義者ではなかった。
 北京の袁と南京の臨時政府との間で密かに交渉が持たれ、袁は条件を受諾。軍事力を背景に宣統帝を退位させた。代々官人を輩出した名家に生まれながら、科挙に失敗して李鴻章の淮軍に参加し軍人として栄達してきた袁は、有能な軍人であると同時に機会主義者でもあった。その機会主義者は土壇場で主君を裏切ったのであった。こうしておよそ三〇〇年続いた清朝は滅亡した。
また、始皇帝以来の皇帝専制を終わらせたという意味で中国史の一大画期であった。北京に袁世凱を臨時大総統とする政権が樹立され、情勢を静観していた列強諸国もこれを正統の政府として承認した。ちなみにこの頃、革命の混乱に乗じてロシアが蒙古独立を画策したが。イギリスによって阻止されている。ともあれ、辛亥革命はひとまずの終わりを見た。
 しかし、理想と現実の妥協によって生まれた北京政府は革命派と袁派の同床異夢であった。八月、孫文らは袁派に対抗して同盟会と革命派の軍人や官僚を糾合して「国民党」を結党した。両者は水面下で激しく対立したが、一九一三年四月に袁派が孫文の側近で国民党の党務を取り仕切っていた、宋教仁を暗殺したことで決定的なものとなった。袁によって政権から放逐された革命派は再び南京で臨時政府を樹立したが(第二革命)、軍事力で対抗することはかなわず、南京や広東などの華南の主要都市が北京政府の差し向けた軍によって陥落した。
 事ここに至って、革命派(≒国民党員)のとり得た道は四つであった。即ち、日本への亡命、欧米への亡命、中国国内での潜伏、北京政府への恭順であった。結果的に日本への亡命を選んだ者たちが今後の革命を主導することになる(ちなみに国内潜伏を選んだ者の多くは北京政府によって処刑された)。日本への亡命を選んだのは孫文や黄興らであったが、蒋介石も陳其美とともに日本へ亡命した。
 日本への亡命後、蔣は孫文の結成した「中華革命党」に参加した。これは革命の失敗を「不純な反革命分子」の混入にあるとみた孫文が新たにつくった革命政党であったが、構成員に自身への絶対的な忠誠を求めたため、黄興らの離反を招いている。以後、中国の革命運動はこの中華革命党に参加した面々に主導されることとなる。
 一九一四年七月、第一次世界大戦が勃発すると蔣介石は密かに満洲に渡った。ロシアの参戦で手薄になると思われた満洲で革命運動を扇動するためである。しかし、予想に反してロシアの支配はいまだ強固であり、また革命の機運も十分でなかったのか、これは失敗している。その後、陳其美の指示で上海に渡りフランス租界を拠点に反袁活動を展開した。一九一五年一二月に袁世凱が皇帝への即位を宣言したことは、革命派にとって大きな好機であった。袁の即位は中国国内では唐継堯の雲南軍閥や陸栄廷の広西軍閥の離反や世論の反発、さらには北京政府からの造反を招いたし、対外的にも親袁的な日英を含む列強の不興を買ったのである(帝政は一六年三月に取り消し)。
 ちなみに一九一六年という年は蔣介石個人にとっても大きな変化のある年であった。まず、長男・経国に続きもう一人の息子・緯国を得た。実子ではなく、知人の中国人の軍人と日本人女性の間に生まれた男児を引き取って養子にしたのである。上海にいた蔣は後に二番目の妻となる姚怡誠と同棲していた。さらに兄貴分の陳其美を袁派の暗殺によって失った。日本留学時代から自分を導いてくれた人物を唐突に失ったことは、蔣にとってむろん大きなショックであった。しかし同時に孫文を軍事面で支えていた最側近の一人が死亡したことは、蔣が後にその座を埋めることにつながっていくのである。

○国民党右派の形成
 一九一六年六月、袁世凱は死去した。その後の政局については先述したので、ここでは革命派と華南地方での動きを中心に記述する。袁の死去後孫文は帰国し、北京政府の実権を握る段祺瑞に臨時約法の復活を要求した。しかし、段は逆に独裁傾向を強め、国会も解散したので、孫文は唐継堯や陸栄廷と提携し、広東に臨時政府を樹立した(広東政府、第三革命)。しかし北京政府を、軍事力をもって妥当することは困難であり、広東政府も孫文ら革命派と軍閥との思惑の違い、さらには革命党内部からの裏切りによって二度にわたる瓦解と再建を繰り返した。孫文は自前の軍事力の必要性を痛感した。
 この間蔣介石は、三度目の結婚と母の死という個人的な変化に直面するとともに広東政府軍の参謀長補佐に任命されるなど歴史の表舞台への道を着々とたどりつつあったが、一九二三年一月に樹立された第三次広東政府において遂に革命軍参謀長に抜擢された。孫文の最側近であると同時に革命軍の軍権を事実上掌握した形であった。
 さて、孫文は武力による早期の南北統一を志向していたわけであるが、そのためにも外国の後援を必要としていた。その後援先として孫文が目をつけたのは(後の展開から考えれば意外な感があるが)建国間もないソ連であった。ソ連は主要国の中では唯一広東政府を承認していた。二三年八月、その答礼という名目で孫文ソ連使節団を派遣したが、蔣介石もそれに加わっていた。ソ連を視察した蔣は、共産党赤軍の組織を学び、後に政権を掌握した際、国民党や国府軍の組織作りの参考とした。
 しかし同時に、蔣の後半生のテーマとなる「反共」の原点となったのもこのソ連行であった。蔣は訪ソの折にソ連側が国民党に対し、批判的な演説をしたことに反感を覚えた。また、蔣の見るところソ連共産党の目的は共産主義による世界征服であり、そのために国民党を利用しようとしていた(その見方は完全に正確ではないとしても大筋において間違いでなかった)。
 訪ソ団の帰国後、中国共産党の党員が個人の資格で国民党に入党するなど「国共合作」が推進されていく。しかし、イデオロギー的な反感からこれに反発する国民党員も多かった。歴史的に「国民党右派」と称されるグループが形成されていったが、蔣はその中心となっていった。また、ソ連との提携を推進する孫文への反発から蔣の孫文からの政治的自立も結果的にもたらした。
 ソ連からの帰国後、蔣は新設された黄埔軍官学校の校長に就任された。国民党独自の軍を保有することは党創設以来の宿願であったが、ソ連人顧問の協力によってその実現の目途がついた。黄埔軍官学校はその党軍の将校を養成するための軍事教育機関であり、蔣はその責任者に任命されたのであった。この時期、対ソ姿勢をめぐって孫文と蔣の間に疎隔が生じつつあったが、蔣にそのような地位を与えたところに孫文の蔣に対する信頼が依然篤いものであったことが窺える。あるいは自分から離れつつあった蔣を引き戻す意図があったかもしれない。
いずれにせよ、蔣にとって最大の成果は黄埔軍官学校の校長に任命されたことであった。一九四〇年代までに蔣は完璧に近い独裁体制を確立したが、その権力の源泉の一つは軍の掌握にあった。それを可能にしたのは黄埔軍官学校出身の軍幹部が蔣に忠誠を誓い続けたからであった。歴史の皮肉めいたことではあったが、国民党とソ連との提携、その最大の受益者のひとりは間違いなく蔣介石であった。

孫文の死と北伐
 一九二五年三月、孫文が死去した。生涯を革命と祖国に捧げたこの男は、最後に遺したという「革命未だ成らず」という言葉のとおり、中国統一を成し得ないまま世を去った。五八歳であった。
 孫文の死によって国共合作は崩壊し、蔣介石は権力者の座に就くことになるが、その直接の契機となったのは二六年三月の「中山艦事件」であった。二六年三月一八日夜、国民党海軍所属の砲艦「中山」(孫文の号に由来)が広州の黄埔軍官学校の沖合に突如として現れた。軍の上層部も知らぬ行動であった。蔣はこれを「自分をソ連に拉致するための中国共産党の謀略」であるとして、「中山」艦長と中国共産党関係者の逮捕を命じた。
 事件当時、北京政府に対する「北伐」をめぐって国民党右派と国民党左派、中国共産党ソ連顧問団との対立が深まり、国民党は機能不全に陥りつつあった。そのあおりを受けて、蔣は黄埔軍官学校校長を辞任。国民党軍軍監という閑職に就いていた。中山艦事件については、膠着した事態に焦った共産党関係者による謀略であるとする説と、対立派閥の追い落としを狙った国民党右派による自作自演という説があり、現在でも真相は不明である。
 いずれにせよ、この事件を機に共産党系国民党員はされ、党軍事委員会主席で国民党左派の領袖ともいうべき王精衛はフランスへ亡命。その後任には蔣が就任し、右派が党内を掌握した。国共合作は形式的に維持されたが、内実は無きに等しかった。そして抵抗勢力がなくなった蔣は国民党軍を「国民革命軍」とし、七月に国民革命軍総司令官として北伐を宣言した。
 蔣介石が組織し鍛え上げた国民革命軍は各地で北京政府軍や軍閥勢力を撃破し、順調に進撃した。二七年三月、南京を占領した。その際、南京に入った国民党軍の一部が外国人居留民に対して、暴行や殺害、略奪を行った。これに対し当時、総選挙に勝利して発足したばかりの第二次原敬内閣は英米と共同歩調をとり軍艦による南京市街への砲撃と海軍陸戦隊を投入しての居留民救出を行った(南京事件)。
事件により国民党政権と列国の関係は緊張したが(列国が賠償金の支払いと文書による公式の謝罪などを要求したのに対し、国民党政府の陳友仁外交部長が「事件の責任の一部は不平等条約の存在にある」と発言したことも事態を複雑にした)、日本やイギリスの仲介工作によって国民党政府の公式の謝罪、賠償金の支払いなどで自体は決着した。
 事件の原因は中国人の間に長年熟成されていた列強への反感など複合的なものがあったが、蔣は北伐を妨害するための共産党の陰謀であると信じた。そして四月、占領されたばかりの南京に遷都した(南京政府)。その直後、上海に戒厳令を布告。共産党員の逮捕とソ連顧問団の国外退去を命じ(上海クーデター)、国共合作は完全に崩壊した。
 蒋介石が「日本陸軍勤務時代の上官にあいさつする」名目で私的に来日したのは、二七年九月のことである。蔣と日本の原敬は神戸市・塩屋にある原の別荘で会見した。後の世にいう「塩屋会談」であるが、この席で日本側は「直接的な軍事介入を除く、国民党政府による中国統一への全面協力」を約束した。また、蔣はこの来日で駐日イギリス大使とも会談しており、日英が国民党政府を後援する構図が明確になったといえる。
 一九二七年六月、国民革命軍はついに北京を占領した。それは清朝滅亡以来一五年ぶりに(少なくとも名目的に)中国大陸が単一の政権に統一されたことを意味したが、その政権基盤は盤石ではなかった。国内には上海クーデターを逃れた共産党がおり、国民党内にも反蔣派がいた。さらには旧北洋軍閥に属さない独立系軍閥日和見的に国民党政府に帰順しただけであり、情勢次第でどう動くか知れたものではなかった。現にこの後も蒋介石軍閥共産党の軍と戦い続けねばならなかったし、最終的に中国大陸は国民党と共産党の二大勢力に分裂し、今なお九〇年以上も続く国共内戦の時代に突入していくのであった。
 また、この蔣介石による北伐のを日英と合衆国の対立という文脈からとらえれば、日英の支援する国民党政府と合衆国が後援する北京政府の代理戦争であり、それは最終的に日英の勝利で決着した。そしてそれは、日英・合衆国対立のさらなる深化につながったのである。

黄土の暗闘 ―中国大陸における日英と合衆国関係Ⅰ―

一九世紀後半から中国大陸は列強角逐の場となり、帝国主義の縮図と化していたが、辛亥革命によって清朝が倒れた後、その争いは質的な変貌を遂げた。すなわち、清朝時代は租借や割譲によって直接的に領土や勢力範囲を拡大することを志向していたのに対し、清朝滅亡後の内乱状態の中で、列強は内戦の当事者たちを支援することで自国に有利な政権を中国大陸に樹立することを目的とするようになっていったのである。
 その中でも特に熾烈な戦いを繰り広げたのが日英と合衆国、そしてソ連であった。特に日英と合衆国のそれは南北戦争後の合衆国の伝統的な反英感情、日米の太平洋における勢力争いや貿易摩擦とあいまって、両者の対立を抜き差しならないものとした、その大きな要因の一つとなった。
 南北戦争の結果、南北の再統一に失敗した合衆国にとって、南部連合とは脇腹に突きつけられたナイフに等しかった。さらに戦争中に南部寄りの中立であったイギリスとの関係も悪化したから、イギリスの保護領であるカナダも含めて、合衆国は三方向に仮想敵国を抱えることとなってしまったのである。このような状況下で北米大陸の外に目を向ける余裕などあろうはずもなく、合衆国がアジア・太平洋に本格的に目を向けたは、二〇世紀初頭のセオドア・ルーズヴェルト政権以降のことであった。「遅れて来た帝国」日本よりもさらに遅れる形となった合衆国が、すでに列強諸国による分割が進んでいた中国大陸に進出することはむろん容易ではなかったが、合衆国はその機会を虎視眈々と窺っていたのであった。

○北洋軍閥の分裂と安直戦争
 一九一六年六月、中華民国大総統にして北洋軍閥の首領であった袁世凱が死去した。前年一二月に皇帝即位を宣言したし、国号を「中華帝国」と改めたものの、華南では粱啓超ら護国派が蜂起。鎮圧にも失敗し、北洋軍閥内部からも反対の声が相次ぎ一六年三月に入って撤回を余儀なくさた、その失意の中の死だった。
 袁の死後、北洋軍閥を掌握できるものはおらず、紆余曲折を経てその勢力は段祺瑞の安徽派と馮国璋の直隷派に分裂した。さらに華南には唐継堯の雲南軍閥と陸栄廷の広西軍閥などの有力な勢力があった。また、東北では張作霖奉天軍閥が割拠しており、中華の統一はいまだ遠くあった。
 安徽派の段祺瑞は国務院総理(首相)と陸軍総長(陸相)の座にあり、直属の兵力こそ乏しかったものの、軍権を掌握していることが強みであった。対する直隷派の馮国璋は大総統代理の地位にあり(袁世凱死去後の大総統であった黎元洪は段との政争に敗れて解任されていた)、兵力こそ段に劣っていたが彼に忠誠を誓う直轄軍を持っていることが強みであった。
 一九一七年九月、孫文らが唐継堯、陸栄廷と連立して広東政府を樹立すると、その対応をめぐって両者の対立はついに表面化した。武力による討伐を主張する段祺瑞と平和的解決を唱える馮国璋に国論は分裂したのである。段は国会で多数派工作を行い、馮を大総統代理から解任した。これにより両者の対立は決定的なものとなったのである。
 直隷派と合衆国が接近したのは一九一八年三月、ヴェルサイユ条約の締結が契機であったといわれる。一九一七年に中華民国は連合国側に立って第一次世界大戦に参戦した。参戦国の一つとしてパリ講和会議にも代表を送り込み、ドイツが租借していた膠州湾の返還を求めたが容れられず、膠州湾租借地は日本の引き継ぐところとなった。これに対し中国では学生を中心に講和会議を主導したイギリス、膠州湾を領有した日本、そして講和条件を受諾した段祺瑞の政権への不満が高まり、それは抗議デモ、日本やイギリス製品、企業へのボイコット、あるいはストライキや暴動として現れた(この一連の動きを一八年五月四日に北京の天安門広場で行われた大規模なデモにちなんで「五・四運動」と後に呼ばれることになる)。
 当時の中国大陸における主流は袁世凱政権とその後継たる段祺瑞政権であり、日英はこれを支援していた。しかし五・四運動でその権威は傷つき、世論の支持は低下した。合衆国はこれを好機として、雌伏していた馮国璋に接近し支援したのである。
 馮国璋は翌年病死したが、直隷派は部下の曹錕と呉佩孚に引き継がれた。そして一九二〇年、安徽派と直隷派はついに武力をもって激突した(安直戦争)。二週間にわたった戦闘は最初、兵力に勝る安徽派の優位で進んだ。しかし、馮国璋の遺した精鋭軍が盛り返したことで、段祺瑞陣営からは離反が相次いだ。もともと段の独裁的な振舞いに不満を持っていた軍の高官も多く、その忠誠と結束は決して強いものではなく、土壇場でその脆さが現れた形となった。
 敗れた段は北京を逃亡し、天津の日本租界に逃げ込んだ。こうして黎元洪を大総統に据えた上で、実権は曹錕と呉佩孚を中心とした集団指導体制が成立した(直隷派政権)。こうして合衆国が支援する勢力が政権を掌握し、少なくともこの時点では合衆国が日英に対し勝利をおさめた。

○直隷派の内紛
 直隷派が北京政府を掌握し、合衆国が歴史上初めて中国大陸における列強間パワーゲームの主導権を握ったかのように思われたが、事態はそれほど単純なものではなかった。華南では孫文を初めとする革命派が地元の軍閥と連合政権を組んでいたし、満洲には張作霖がいた。また、北京政府自体が直隷派をはじめとしたいくつかの軍閥の集合体であり、その団結は甚だ心許なかった。さらに事態をややこしくしていたのが、直隷派内部にも分裂が生じつつあることであった。
 段祺瑞を追い落とした直隷派は黎元洪を大総統に据え、曹錕が国務総理、呉佩孚が陸軍総長という体制で政権を発足させたが、曹と呉の間で路線対立が生じつつあった。曹が直隷派による独裁体制を確立し、武力による全土の統一を志向したのに対し、呉は華南の孫文らと妥協し、速やかな統一政権の樹立を主張した。
 北京政府内では相対的に最強の武力を保有する直隷派ではあったが、必ずしも広汎な支持を得ているわけではなかった。そうした中で直隷派が独裁的に振舞えば再度の内紛を呼ぶ恐れがあり、呉はそれを懸念していた。対して、曹に言わせれば呉の主張するような「話し合いによる統一」など所詮は理想主義者の空理空論であった。実力で統一してこそ、真に盤石な政権ができるのであった。北京政府全体では呉を支持する者が多かったが、直隷派内部では曹が強い支持を得ていた。こうして直隷派は曹錕の保定派と呉佩孚の洛陽派に分裂したのである。
 事態が動いたのは一九二三年のことでことであった。曹錕は国会に働きかけ(武力による示威も含まれる)、大総統の黎元洪を解任し、自らの大総統就任と翌年から華南への出兵を発表した。同時に国会を無期限閉会し、独裁体制を確立したのである。
 曹は呉を陸軍総長から南征軍司令官に転出させた。陸軍の最高責任者から一方面軍司令官への転任であり、事実上の左遷であった。そこには呉を首都・北京から出すことで、政治的な策動を抑込む意図があったといわれている。この時期、華南に樹立された広東政府では内紛が勃発しており、南征軍を迎え撃つ余裕はなかった。したがって南征が実行されていれば北京政府による中華統一が成功していたかもしれなかった。
 しかし、ここから事態はさらなる急転を見せ始める。呉は南征軍司令官に就任する条件として、司令部の幕僚を自身で選ぶという条件を付け、曹はそれを了承した(保定派の軍人も司令部と前線指揮官の双方に配置していた)。そして翌二四年、三路に分かれて南征軍は進撃していった。呉の本軍はもっとも東よりのルートを進んでいたが、済南付近まで進撃したところで軍を反転させ、「不正に大総統に就任した曹錕の征伐」を中華全土に向けて宣言したのである。
 これを知った曹はむろん激怒し、直ちに呉の追討を宣言。他の南征軍にも呉を攻撃するように命じたが、その命令は実行されなかった。残り二路の南征軍は呉の宣言を知ると南進を止め、かと言って呉を攻撃するでもなくその場に停止した(ちなみに南征軍にいた保定派の将校たちは拘束された)。つまり、直隷派内部での支持基盤の弱さを自覚していた呉は、四年かけて北京政府内部と軍内での支持を広げていたのであり、南征がなくともいずれ曹錕を追い落とすつもりであった(呉が取り込みを図った中には旧安徽派も含まれており、呉は天津で隠棲していた段祺瑞にも接触している)。それが南征軍の司令官として実戦部隊を与えられたことで、はからずもその好機を得た形であった。
 曹錕は自ら軍を率いて、呉の軍の迎撃にあたり、両軍は天津郊外で激突した(天津まで呉の進軍を許したのは、曹錕が自ら出撃するか迷い、迎撃が遅れたためとの説がある)。兵力では曹が優勢であったが、戦闘の最中に保定派の将軍の一人であった馮玉祥が寝返り、曹錕の本営を突いたため、戦闘は呉の勝利に帰結した。曹は捕えられ北京で軟禁された。
 後年、元洛陽派の高官のうちの何人かが証言したことであるが、呉のクーデターの背後には合衆国の支援があった可能性がある。独裁的な傾向を深める曹を合衆国も切りたがっていたということかもしれないが、事実としては新たに発足した段祺瑞を大総統とし、呉佩孚を国務総理とする政権は合衆国の支援を受け続けたのであった。

第一次世界大戦と高度成長

 一九世紀の始まる頃、世界最大の工業国であり同時に世界最強の国家であったのは間違いなくイギリスであった。しかし、二〇世紀の始まる頃世界最大の工業国になっていたのは、南北戦争の消耗から立ち直った合衆国であり、次いでドイツであった。それに伴い世界史の主役の座は、観客が容易に認識し得ないほどゆっくりと、しかし着実に交替しつつあったが、第一次世界大戦がそれを加速させた。
 ヨーロッパが空前の戦災を被り、たとえ一時的にであったとしてもその影響力を後退させる中、戦争による直接的被害を受けなかった日本、合衆国、南部連合の三国においては純粋に経済面だけをみれば、大戦は惨事ではなくむしろ福音で三者三様に経済的発展を遂げることとなるのである。
 中でももっとも大きな変貌を遂げたのが日本であった。日本は大戦を契機に後に「第一次高度成長期」と呼ばれる経済成長期に入る。それは二〇世紀に日本が三度経験することになる高度成長期の最初のものであったが、大戦が始まった一九一四(大正三)年と世界恐慌で第一次高度成長期が終わる一九二九(昭和四)年を比べると、日本の経済規模は四倍以上に拡大していた。それは成長というより、膨張といった方が相応しいような拡大ぶりであった。
 第一次高度成長を牽引したのは軍需(軍艦や銃器はもとより被服など多岐にわたった)、鉱業、鉄鋼業などの産業であった。第一次世界大戦の四年間で日本が欧州まで送りこんだ兵力は陸海軍あわせて四〇万人以上に上った。その膨大な兵力と彼らを支える武器・弾薬、食料、医薬品などの物資と、それらを地球の裏側まで送りこむための船と船団護衛用の駆逐艦がいくらでも必要であった(さらに日本は他の連合国にも武器・弾薬などの物資を供給していたし、連合国やその植民地で不足していた民需品も売らねばならなかった)。第一次世界大戦は日本にとって「他人の戦争」であったが、少なくとも兵站的には日本史上最大の戦争であった。
 当時の日本の生産力ではその膨大な需要を満たすことはできなかったが、通産省と陸海軍省主導で「戦時産業特別措置法」が制定され、「戦時金融公庫」が開業した。これは戦時国債を財源として、造船や軍需産業とその原料を供給する鉄鋼業界と鉱山業界に低利で融資を行うものであった。この政策には戦争終結後の生産設備のダブつきを懸念する声があったが、結果的には杞憂となった。戦時景気と戦後も続いた高成長は、拡張された生産設備を必要とするほどに日本経済を拡大させたからである。
 また、第一次世界大戦の戦時特需は日本の製造業を質的に向上させるきっかけとなった。それまでの日本の製造現場においては統一的なマニュアルがないところが多く、品質は工員の経験と技量によるところが多かった。しかしながらそれは、一定の品質の製品をとにかく大量に供給することが求められる戦時需要には不向きであった。一九一六年(大正五年)、通産省経団連の音頭で大学の研究者と主要企業の技術者が集まり「日本工業会」が設立され、企業横断的に品質の底上げと均質化に向けた取り組みが始まった。
 結果的にこの取り組みは戦争中に十分な成果を上げるには間に合わなかったが、製造業を初めとする日本企業に属人的に品質を維持・向上させるのではなく、企業全体でマニュアル化や社員教育を通してそれを行うという「品質管理」という概念を根付かせたという点で大きな意味を持っていた。これは世界に先駆けた概念であったが、今なお続く「日本品質」、「日本ブランド」を生みだすこと一因であったといえるだろう。
 第一次高度成長は鈴木商店や内田財閥(ともに神戸)などに代表される新興財閥の勃興をもたらしたが、日本の経済史的には安定した中間層と内需が創出されるきっかけとなったという意味で、より重要であったと言える。それまで日本の経済の成長は外需頼みであったが、造船、鉄鋼を中心に膨大な需要とそれに応えるための雇用が生まれた。その影響は周辺の産業にも順次波及し、都市部を中心に日本史上初めてともいってよい層の厚い中間層を生みだすこととなった。所得の増えた彼らは電気アイロンやトースター、電気釜(の元となった家電)、扇風機、それにラジオや輸入車といった耐久消費財を購入し、映画や芝居などの娯楽にも興じた。さらにちょうど大戦の始まる直前から、阪急電鉄が神戸や大阪の郊外で宅地開発にのりだし、日本初となる住宅ローンでの販売を行っていたから余裕のある者は住宅を購入したし、サラリーマンが家族そろって都心のデパートに休日に出かけるような光景が見られるようになった。基幹産業から娯楽産業まで幅広く波及した経済効果がさらに多くの中間層を生みだすという好循環が生まれた。
 それまで外需頼みで不安定なところのあった日本経済が、大戦終結後も一時的な落ち込みを経ただけで、なおも高成長を続けることができたという事実が底堅い内需が創出されたことを証明していた。もちろん、安定した中間層と内需の存在が、政治的な安定にとってプラスであることは言うまでもない。
 一方で第一次高度成長ではその恩恵は都市部を中心としており、農村部では「地主と貧しい小作人」という構図が相変わらず存在し続けていたし、都市部でも全ての人が成長の果実を享受したわけではなかった。第一次高度成長は日本という国に鮮烈な二重構造を生みだした(あるいは存在していたものをより鮮明にした)。そのことが一九三六(昭和一一)年の「桜会事件」に象徴されるような急進的な国家改造の動きを生じさせる一因になるのであるが、こうした問題の解決は後の第二次高度成長や社会改良運動を待たなければならなかった。

軍縮と一二使徒 ―ロンドン海軍軍縮条約―

ロンドン海軍軍縮会議
 
 第一次世界大戦終結し、世界は平穏を取り戻した。それは結果的にみれば戦争と戦争の谷間に生じた、ささやかな平和ではあったが、その束の間の平和の間にいくつかの国は史上空前の繁栄を謳歌したのである。だれともなく呼ばれた「黄金の二〇年代」と―。
 その繁栄と平和の二〇年代の最初を飾るのは、ある意味でそれにふさわしい出来事であった。人類史上初の多国籍間による軍縮条約「ロンドン海軍軍縮条約」の締結である。
 最初にそれを提唱したのはイギリス首相ロイド・ジョージであった。当時は第一次世界大戦前から続く海軍軍拡競争のただ中にあった。たとえば提唱国のイギリスは艦隊整備において「二国標準主義」を掲げていた。これは世界第二位と第三位の海軍国をあわせたものを上回るだけの海軍力を保持するというものであったが、後に世界第二位の海軍国(具体的にはドイツ)との相対的な国力差の縮小により実現不可能になり、「世界第二位の海軍の二倍の海軍力を保持する」方針に改められた。
 そのドイツにおいては第一次世界大戦によって退位したヴィルヘルム二世帝と海軍大臣ティルピッツによって、三次にわたる「艦隊法」が制定された。これは最終的には戦艦四一隻、巡洋戦艦二〇隻を基幹とする艦隊を整備するという大計画で、それは完全ではないにせよ実現し、「高海艦隊」として結実した。第一次世界大戦の勃発時、ドイツ海軍はイギリスの六割に匹敵する戦力を手にしていた。
 また合衆国は策定時の海軍長官の名を取って、「ダニエルズ・プラン」と通称される艦隊整備計画を進めていた。これは一九二一年を目標として戦艦五二隻、巡洋戦艦六隻、装甲巡洋艦一〇隻等を整備するというものであった。
 日本においては著名な「八八艦隊計画」が立案されていた。これはその名の通り戦艦八隻と巡洋戦艦八隻を建造するというもので、しかもその艦齢を八年以内とするという計画であった。
 その他、ロシア、フランス、南部連合など列強各国で様々な海軍軍拡計画が立案されていたが、上記のものを一読しただけでわかるように、それは国家の財政的自殺行為であり、「国家のために海軍がある」のではなく、「海軍のために国家がある」ようにならしめる、少なくとも現代からみれば、ある種の狂気的な計画であったといえよう。また、列強間の海軍拡大競争そのものが、大戦を誘発した一つの原因であったことも否定しがたいであろう。
 こうした破滅的軍拡競争は、大戦前はもちろん、その後においても続けられていたのであるが、真っ先に音を上げたのが大戦によって疲弊したイギリスであった(ドイツは大戦末期の政変によって軍縮路線に転じており、ロシアについては国自体が消滅した)。海軍軍拡はこれ以上国力の許容するところではなかったが、一国で軍縮に転ずることは、仮想敵国(この場合は合衆国)とのバランスの上から是認しがたかった。そこで、「次の戦争の抑止」や「多国間協調による平和の実現」といったことを大義名分として、列強諸国が足並みそろえての海軍軍縮を提案したのである。
 実はこの提案は、大戦の直接的被害がなかった国々、もっというならば大戦をきっかけとして国力を伸張させた国々にとっても渡りに船であった。具体的には日本、合衆国、そして南部連合のことであるが、これらの国々とて冒険的な海軍軍拡が多大な負担であり、遅かれ早かれ限界に達するであろうことに少なくとも気づき始めていた。ただ、将来敵国になるかもしれぬ国がそれを続ける限り、自分だけ中止するわけにもいかなかっただけのことであった。
 かくして一九二〇(大正九)年一一月、イギリスの首都ロンドンに日本、イギリス、合衆国、南部連合、ドイツ、フランス、イタリアの代表が参集し、「第一次ロンドン海軍軍縮会議」が開催されたのである。日本の全権団は主加藤友三郎海相を主席に、徳川家達元大統領、幣原喜重郎駐英大使を中心に構成されていた。ちなみに加藤は日露戦争時は連合艦隊参謀長であり、日本海海戦の際、海戦終盤に旗艦「三笠」に敵の主砲弾が命中し、東郷平八郎司令長官を含め司令部要員が多数戦死したため自らも負傷しながら指揮を代行し、ロシア艦隊の降伏を見届けるやその場で気絶したという経験の持ち主であった。彼はその痩身から欧米の記者たちから「ろうそく」と呼ばれることになる。
 会議の方針として巡洋戦艦をふくむ戦艦と空母を主力艦として規定し、その保有トン数の上限を国ごとに割り当てるということが予備交渉の段階で決定しており、具体的に各国間の比率を決めることが焦点であった。交渉の初め、日本はイギリスと合衆国の保有枠の八割を主張し、南部連合が五割を主張した。
 ロシアなき後の日本の最大の仮想敵国は合衆国であったが、仮に合衆国と開戦した場合、その主戦場は太平洋が想定された。当時の日英同盟では適用範囲が極東からインドにかけての地域に限定されていたから、日本と合衆国の戦争にイギリスが参戦してくるかどうかは不透明であった。対米八割という比率は、仮に日本単独で合衆国海軍の全力を相手にする場合でも決定的な不利を避けるためのものであった。
 南部連合については言わずもがな、合衆国は建国以来の宿敵であった。合衆国と再び戦争になった場合、主戦場は陸になるとしても自国周辺海域の制海権を維持する必要があった。また、正式ではないにせよ事実上の同盟関係にあるイギリスから、参戦はないにせよその管理下にあるパナマ運河の封鎖くらいの協力は期待できた。その場合、合衆国海軍の太平洋にある艦隊が大西洋まで回航されてくるまでの時間差を利用した各個撃破作戦が成立し得る最低限の比率が対米五割であった。
 しかし、合衆国にとってこの比率は到底容認し得ないものであった。合衆国にしてみれば最悪の場合、日本、イギリス、南部連合の三国を同時に相手にせねばならなかった。イギリスの海軍は全世界に散らばっているため、差し当たり相手にせねばならないのは全体の半分であるとしても、日本と南部連合は全力を投入してくる可能性が高いから、日本と南部連合の要求を認めると自国の二倍近い海軍力と戦うことになり得た。許容できる不利の限界を超えていたのである。
 また、もう一つの争点として日本の新鋭戦艦「土佐」の取り扱いがあった。日本は当時八八艦隊計画の一環として、四〇センチ砲八門搭載の長門級戦艦「長門」「陸奥」、同一〇門搭載の加賀級戦艦「加賀」「土佐」を保有していた。実は「土佐」は条約成立を見越して未完成部分が残っているものを「完成艦」として日本海軍に引き渡されたばかりであった。条約交渉では、条約成立時に未完成の艦は放棄するようにする方針であったが、合衆国は「土佐」を未完成艦であるとして放棄するよう、日本側に迫ったのである。
 日本としては仮に保有トン数で譲歩するのであれば、一隻でも多くの四〇センチ砲搭載艦を保有し、質的に合衆国海軍に対抗したいところであった。当時すでに完成していた世界の四〇センチ砲搭載艦は日本の四隻だけであり、建造中のものを含めても合衆国の四隻があるだけであったから、大きなアドバンテージとなり得た。
 保有トン数か「土佐」の保有かで日米、そして南部連合は互いに譲らず、一時は交渉の決裂さえ危ぶまれた(現に合衆国の新聞には先走ってそのように報じたものがあった)。交渉の流れを変えたのはイギリスであった。軍縮会議と同じ頃、同じくロンドンでは日英同盟の延長のための交渉がなされていたのだが、その席でイギリスは日英同盟の適用地域限定しないことを提案してきたのである(余談ではあるが、幣原駐英大使はこちらの交渉を主に担当していたので、軍縮会議にはあまり参加していなかったという説もある)。もっともこれに関しては日英同盟の適用範囲拡大は日本側から提案されたという説も最近出できており、今後の研究が待たれるところである。
 いずれにせよ日英同盟が太平洋地域においても有効であるならば、日米開戦となった場合でもイギリスの参戦が期待でき、日本としては保有トン数に妥協の余地が生まれる。また、イギリスは南部連合に対しても「合衆国の一方的な侵攻を受けた場合に限り」参戦する密約を持ちかけた。これで南部連合にも保有トン数にこだわる理由がなくなった。
 イギリスのこれらの動きはもちろん表沙汰にならなかったが、日本の加藤首席全権が保有トン数の対英米七割、「土佐」の保有を条件に合衆国が建造中のコロラド級戦艦四隻の保有を認め、それらが全て太平洋に配備されてもよい、という妥協案を提示。南部連合代表も保有トン数の対米四割への譲歩を表明した。
 合衆国としては満足と呼べる内容ではなかったが、交渉を決裂させ、無制限の軍拡競争に突入することは、財政と世論の許容するところではなかった。交渉開始から三ヶ月後の一九二一(大正一〇)年二月、七ヶ国の代表により「ロンドン海軍軍縮条約」が調印された。条約の主な内容は以下の通りである。
①主力艦の保有比率は英米一〇、日本八、南部連合四、独仏伊三.三四とする。
保有する戦艦の最大トン数(基準排水量)は三.五トン、搭載し得る艦砲は最大一六インチ(四〇.六センチ)までとする。
③日本は長門加賀級戦艦各二隻を保有し、合衆国はコロラド級戦艦四隻を保有することができる。また、イギリスと南部連合も四〇センチ砲(南部連合は後にイギリスからネルソン級戦艦二隻を購入した。ロバート・E・リー級戦艦である)。
④建造中止となった戦艦の艦体を空母等に改装することは差し支えない(これにより日本は天城級巡洋戦艦二隻を、合衆国はレキシントン級巡洋戦艦二隻をそれぞれ空母に改装した)。
⑤条約の発効は翌一九二三年からとし、期限は一〇年とする。

イギリスの水面下での動きはマスコミに伝わらなかったので、表面的には最初に譲歩を表明した日本の加藤全権が「条約を救った英雄」としてもてはやされ、「世界に希望の光をもたらすろうそく」、「アドミラル・シテイツマン(提督政治家)」などと呼ばれた。
 結果的にみればこの条約でもっとも得をしたのは四〇センチ砲戦艦四隻の保有を認められた日本と合衆国であった。反対にイギリスは四〇センチ砲戦艦の保有を二隻までしか認められず、また事実上対米参戦を義務付けられる結果となり、もっとも高い代償を払った形となった。条約交渉に随行員として参加していたある英海軍の大佐は、この条約をみて「大英帝国の落日の象徴」と評したという。
 ロンドン海軍軍縮条約でその存在が認められた一二隻の四〇センチ砲戦艦は、新約聖書になぞらえて後に「一二使徒(トウェルヴ・アポストレス)」と呼ばれた。人々はそれが戦争ではなく、平和の使徒となることを願望したのである―。

満洲の支配者・張作霖 ―満洲自治政府の成立―

張作霖の経歴

 後に満洲自治政府首班となる張作霖が生まれたのは、清の光緒四年、日本でいう明治八年、西暦では一八七五年のことである。ちょうどその年、清の同治帝が一九歳の若さで崩御し、同治帝の従弟にあたる光緒帝が西太后によって擁立された。わずか四歳の幼帝である。
また、同じ年に日本と朝鮮の間では江華島事件があり、それによって日本は朝鮮を自主独立の邦として江島条約を結んだ。これから一九年後に日清戦争が勃発するが、その伏線が着々と準備されつつある、そんな頃であった。
張の生家は奉天郊外の農村にあったが、現在その場所には張作霖記念館が建っている。先祖は困窮して華北から満洲流入した漢人であり、張が生まれる頃には雑貨商を営んでいたが、その主である父・有財は雑貨商とは名ばかりの、地元では名の知られた博徒であった。有財は張が子どもの頃におそらくは博打のトラブルが元で殺された。きょうだいは兄が二人、妹が一人いたが長兄の作泰は夭折している。
家は貧しく私塾にも行けなかったが、地元の私塾の教師の厚意で一三歳の頃に三ヶ月だけ読み書きの教育を受けている。また、母の再婚相手が獣医であり、張もその技術を習得した。このことは張が馬賊や匪賊と交わり、後に馬賊頭目から奉天軍閥の首領、満洲の事実上の支配者とのし上がる、その端緒となった。
若き日は父と同じく博打に溺れ、何度も死地に立たされたが、後に名を成す者の多くがそうであるように不思議と運に恵まれその度に窮地を脱している。日清戦争が起こると宋慶率いる毅軍(清末によく見られた私兵集団の一つ)に従軍。戦争には負けたが張個人は偵察や諜報の分野で手柄を立て出世し、哨長になっている。
帰還後に村の有力者の娘と結婚。しばらくは獣医として働いた。腕は良く馬賊や匪賊の頭目がしばしば自分の馬を診せに来たという。しかし、程なくして平穏な日々に飽いたらしく知り合いの馬賊頭目のつてで馬賊の集団に入り、さほど時をおかずに自ら一党を率いる頭目となった。
この頃の張の人柄について、証言をまとめると以下のようになろう。「極めて怜悧な判断を下すかと思えば幼児的でもあり、機嫌が良く、よく笑う一方で一度つむじを曲げると二、三日そのままということもあった。何度も捨てられてきた者の厳しさと、その度に救われてきた者の優しさがあった」。
アヘンの密売や金持ちや村落、街の用心棒といった仕事はやったが、その頃の馬賊や匪賊の多くが生業にしていた営利誘拐には決して手を染めなかった。敵対する馬賊の奇襲を受け落命しかかったこともあったが、また別の者が彼を助け、結果的により強盛になった。日露戦争直前に清の官軍に帰順。同じ頃に張作霖生涯の補佐役となり、後に満洲自治政府副総理となる張景恵と義兄弟の契りを結んでいる。
一九〇四年、日露戦争が勃発すると満洲では多くの馬賊が日露両軍に雇われ、諜報や破壊工作に従事した。張が率いる集団はロシア軍に雇われていたが、一方で日本軍にも雇われ、日本軍の情報をロシア軍に流している。言わばロシア軍の二重スパイであったわけであるが、張がもたらした情報が奉天会戦におけるロシア軍の勝利の一因となったとも言われている。
日露戦争の結果、日本は遼東半島を除く満洲をロシアの勢力圏として、ロシアは韓国を日本の勢力圏として相互に承認することとなり、ロシアは本格的な満洲経営に乗り出した。事実上ロシアの国策会社であった東清鉄道沿線は治外法権が認められ、ロシア軍の守備隊が駐留した。
一方で清朝の王朝の故地であり帝都・北京にも近い満洲の支配を強化すべく、奉天吉林黒竜江の三省を置き、これらを東三省として総督を任命した。張作霖と彼の率いる一党も清の官兵として総督の指揮下に入った。露清両国の支配地域が複雑に入り組む満洲の地で、張はその間に立ち調整役となることで富と権力を蓄えた。
一九一〇年、辛亥革命が勃発した際、張も東三省総督・趙爾撰の下で革命勢力と戦っている。一九一一年に清朝が滅亡すると、趙爾撰がそのまま奉天都督となり張作霖も陸軍中将に任命された。この時期、張は満洲で最大の武力を有し、在地勢力を代表する存在となっていたが、一九一六年に北京政府の大総統であった袁世凱が死去すると、趙爾撰に代わって奉天都督となっていた段芝貴を失脚させ、奉天省の支配権を獲得した(奉天軍閥)。一九一九年までには吉林黒竜江省にまで勢力を拡大し、事実上の満洲の支配者となった。
そんな中、ロシアでは革命が起こったのである。

満洲・シベリア出兵

 日露戦争後にロシア帝国初代首相に就任したウィッテは、満洲の地に諸外国からの投資を呼び込むことで、疲弊したロシアの経済・財政を立て直す起爆剤としようとした。その対象は主として日本とイギリス、それに合衆国であった。一国の投資に依存したのでは「軒を貸して母屋を乗っ取られる」事態にもなりかねず、三国に投資させることで互いに牽制させようとしたのだろう。
 ロシア革命勃発当時、ロシアを除けば満洲にもっとも大きな権益を有していたのは、もちろん地理的にも近い日本である。日露戦争で辛うじて遼東半島を守り切ったことを認められ、その租借権をロシアから継承していたから、旅順・大連の港から石炭や鉄鉱石などの資源、あるいは満洲の工場で安価に製造した繊維製品や雑貨を日本に輸出することが可能であった。
 満洲には多数の日系企業が進出し、駐在員とその家族を始めとする数千から一万の邦人が居住し、そのコミュニティの規模は江蘇から広東にかけての中国沿岸部、長江流域に次いだ。また、イギリスと合衆国も規模こそ違えど、多数の自国民が居住していることに代わりはなかった。ロシア革命はそのような状況の中で起こった。
 一九一七(大正六)年の二月革命によってニコライ二世が退位し、ロマノフ朝は滅亡した。その後に成立した臨時政府も同年に再び起こった一〇月革命によって倒されると、その混乱の余波は満洲の地にも及んだ。東清鉄道とその付属地では守備隊の一部が革命勢力に同調して叛乱。ロシア軍同士で相撃つ事態となった。さらにボリシェビキ政権を恐れて満洲に逃れて来た者、あるいは満洲を経由して反ボリシェビキ派や臨時政府の残党が新政権を樹立した、ロシア領アメリカに樹立した新政権に共鳴して露米へ渡る者などが入り乱れ、満洲は混乱の極みとなった。
 もはやロシア軍に外国人居留民の生命・財産の保護を期待することは難しく、満洲に多くの自国民が居住している日・英・米の三国は出兵してそれを保護する以外にないように思われた。しかし、三国の内のいずれかが自国民の保護を口実に大兵力をもって出兵し、満洲をそのまま占領してしまうのではないか、という疑念は互いにぬぐい難く、三国は互いに牽制し合い、事態は膠着したのである(特に日英と合衆国の間の不信は深刻であった)。
 ちなみに日本では出兵に対し、大別して積極論と消極論の二つが対立していた。すなわち積極論とは合衆国(あるいはイギリスも)の意向に関係なく、居留民保護のために日本単独でも出兵すべしという意見であり、当時の与党であった大隈重信率いる憲政党を中心としていた。対して消極論とは、出兵は必要であるとしてもそのためにイギリスや合衆国との関係を悪化させるべきではなく、両国と協定を結んだうえでの出兵を唱えていた。こちらは野党の原敬率いる国民自由党が主であった。一九一八(大正七年)五月の総選挙で国民自由党が勝利し、第一次原敬内閣が発足したことで日本政府の方針は英米と協定した上での出兵となった。
 事態が動いたのは同年五月、チェコ軍団の蜂起がきっかけであった。チェコ軍団はロシア帝国オーストリアハンガリー軍のチェコ人捕虜を集めて編成した義勇軍で、ロシア帝国崩壊後はフランス軍の指揮下に置かれていた。チェコ軍団は当初、武装解除の上欧州からウラジオストクに送られるはずであったが、西部シベリアのチェリャンビンスク駅で起きた、チェコ軍団兵とハンガリー兵の乱闘をきっかけにチェコ軍団が蜂起したのである。
 革命の波及を恐れ、ロシア革命に干渉する機をうかがっていた欧州各国はこれを奇貨とし、「チェコ軍団の救出」を名目に西部シベリアへの出兵を相次いで決めた。後に「シベリア出兵」と呼ばれる干渉戦争の始まりである。シベリアへの共同出兵の流れができたことで、日・英・米の各政府は共同で東部シベリアおよび満洲への出兵を決定した。兵力は東部シベリア・満洲あわせて一万人以内とし、協定を締結したのである。ゆえに日本ではこの出兵のことを「満洲・シベリア出兵」と呼んでいる。
 韓国駐留軍から派遣された日本軍の第一陣が鴨緑江を越え、満洲へ入ったのは一九一八年八月のことである。日・英・米の派遣軍は奉天長春、哈爾浜などの満洲の主要都市を次々占領していった。

満洲自治政府の成立

 もはや革命政権の優位が動かし難いことやチェコ軍団の救出という、当初の目的を達成したことで列国は一九二〇(大正九)年までには相次いで撤兵していった。日・英・米の三国もロシア領内からは兵を引いていたが、満洲には駐留を続けていた。満洲の情勢も張作霖奉天軍閥が全域に勢力を伸ばしたこともあり、平穏を取り戻していたのだが、三ヶ国は互いに牽制し合い、撤兵をしていなかったのである。一九二二年までの間に日・英・米、それに中華民国、ロシア領アメリカに成立した露米政権との間で、二度の協議が持たれていたが、いずれも不調に終わっている。
 交渉の焦点は撤兵後の満洲の管理にあった。もちろん満洲の主権は少なくとも形式的には中華民国にあったが、袁世凱死去後の軍閥内戦のただ中にあり、実際問題として管理能力はなかった。
また、旧ロシア帝国満洲に有していた利権をだれが継承するのかというのも問題であった。新たに成立したソビエト連邦、露米政権ともに自らがロシア帝国の後継国家であるとし、その権利を主張した。ソ連に権利を継承させることは日英米中華民国ともに肯じ得ず、少なくとも形式的には露米政権に継がせるとしても、同政権はこの時点では北辺に成立した弱小政権に過ぎず、その前途ははなはだ心もとなかった。
 そこで日英は国際連盟の管理下に置くことを主張した。しかし、合衆国としてはそもそも連盟に加盟しておらず、日英が常任理事国を務める国際連盟の管理下に置くことは結局、日英の実質的な管理を認めることになるのを懸念し、当事国による共同の管理委員会の設置を主張した。もちろん中華民国は自身の主権を主張し、三者三様の主張が平行線をたどった。もはや意義のない出兵に各国の国内世論も批判的になっていたが、事態は膠着状態に陥っていた。
 変化は結果的にみれば一人の外交官がもたらした。まだ四〇代だというのに薄くなった頭髪、ふくよかな体躯にわけもなく不機嫌そうに口元が歪んでいるが、イギリス製の瀟洒な背広を粋に着こなしているその姿は、外交官というよりマフィアのボスといった負風貌であった。一九二二(大正一一)年三月、後に外相となり日本外交史に名を残す吉田茂が、奉天総領事に着任したのである。
 奉天赴任前、吉田の上司である外相・内田康哉は「満洲撤兵の交渉をまとめるよう」訓令した(撤兵交渉の日本全権は奉天総領事が務めていた)。奉天に着任した吉田は、まず張作霖への会見を申し入れた。数回に渡る会談の詳細は今に伝わっていないが、この過程で両者は一定の合意に達したものと思われる。その上で吉田は英米露、中華民国の交渉責任者に撤兵交渉の再開を呼びかけ、会議に奉天軍閥の代表を加えることを主張した。その際に彼はこう付け加えた「自分に事態を解決する腹案がある」と。
再開された交渉の席上で吉田が提示した案は次のようなものであった。「中華民国の主権の下で奉天吉林黒竜江の三省を統治する自治政府をつくり、その首班は張作霖氏が務める」と。その上で満洲の治安・防衛の責任はこの自治政府が負い、いかなる外国軍も満洲に駐留しないことを協定する、とつけくわえた。それまでの交渉をがらりと変えるような案であったが、考えてみれば現実に即した考えでもあった。現在、満洲の実質的な支配者は張作霖であり、治安もそれによって維持されている面が大きい。吉田案はいわば現状を追認し、それに関係国の承認する自治政府という公式の枠組みを与えるものであった。満洲域内に外国軍の駐留を認めないとすることで、外国の干渉の可能性を排除でき、自治政府中華民国の主権下に置くとすることで、中華民国の面子も立つのである。英米露中の各国はこの案を少なくとも消極的に支持した。各国ともこの不毛な交渉を終わらせるきっかけを探していたのである。
こうして一九二二年七月七日、日本・イギリス・合衆国・ロシア・中華民国、そして奉天軍閥改め満洲自治政府の各代表が「奉天条約」に調印した。そこには満洲自治政府を設立すること、満洲自治政府は独自の軍と警察を有するが山海関を越えて進軍しないこと、外国軍は日・英・米・露・中・満洲自治政府の同意なく満洲域内に立ち入らないことなどが定められた。ちなみに東清鉄道の利権は維持されるが、沿線の治外法権は撤廃され、ロシアの守備軍も廃止されることになった。
こうして張作霖満洲支配は列強からも事実上の公認を得、現在も存続する満洲自治政府が成立した。張作霖はこれから一七年後に訪れるその死まで、満洲の支配者として君臨し続けることになるのである。