小説仮置き場

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満洲の支配者・張作霖 ―満洲自治政府の成立―

張作霖の経歴

 後に満洲自治政府首班となる張作霖が生まれたのは、清の光緒四年、日本でいう明治八年、西暦では一八七五年のことである。ちょうどその年、清の同治帝が一九歳の若さで崩御し、同治帝の従弟にあたる光緒帝が西太后によって擁立された。わずか四歳の幼帝である。
また、同じ年に日本と朝鮮の間では江華島事件があり、それによって日本は朝鮮を自主独立の邦として江島条約を結んだ。これから一九年後に日清戦争が勃発するが、その伏線が着々と準備されつつある、そんな頃であった。
張の生家は奉天郊外の農村にあったが、現在その場所には張作霖記念館が建っている。先祖は困窮して華北から満洲流入した漢人であり、張が生まれる頃には雑貨商を営んでいたが、その主である父・有財は雑貨商とは名ばかりの、地元では名の知られた博徒であった。有財は張が子どもの頃におそらくは博打のトラブルが元で殺された。きょうだいは兄が二人、妹が一人いたが長兄の作泰は夭折している。
家は貧しく私塾にも行けなかったが、地元の私塾の教師の厚意で一三歳の頃に三ヶ月だけ読み書きの教育を受けている。また、母の再婚相手が獣医であり、張もその技術を習得した。このことは張が馬賊や匪賊と交わり、後に馬賊頭目から奉天軍閥の首領、満洲の事実上の支配者とのし上がる、その端緒となった。
若き日は父と同じく博打に溺れ、何度も死地に立たされたが、後に名を成す者の多くがそうであるように不思議と運に恵まれその度に窮地を脱している。日清戦争が起こると宋慶率いる毅軍(清末によく見られた私兵集団の一つ)に従軍。戦争には負けたが張個人は偵察や諜報の分野で手柄を立て出世し、哨長になっている。
帰還後に村の有力者の娘と結婚。しばらくは獣医として働いた。腕は良く馬賊や匪賊の頭目がしばしば自分の馬を診せに来たという。しかし、程なくして平穏な日々に飽いたらしく知り合いの馬賊頭目のつてで馬賊の集団に入り、さほど時をおかずに自ら一党を率いる頭目となった。
この頃の張の人柄について、証言をまとめると以下のようになろう。「極めて怜悧な判断を下すかと思えば幼児的でもあり、機嫌が良く、よく笑う一方で一度つむじを曲げると二、三日そのままということもあった。何度も捨てられてきた者の厳しさと、その度に救われてきた者の優しさがあった」。
アヘンの密売や金持ちや村落、街の用心棒といった仕事はやったが、その頃の馬賊や匪賊の多くが生業にしていた営利誘拐には決して手を染めなかった。敵対する馬賊の奇襲を受け落命しかかったこともあったが、また別の者が彼を助け、結果的により強盛になった。日露戦争直前に清の官軍に帰順。同じ頃に張作霖生涯の補佐役となり、後に満洲自治政府副総理となる張景恵と義兄弟の契りを結んでいる。
一九〇四年、日露戦争が勃発すると満洲では多くの馬賊が日露両軍に雇われ、諜報や破壊工作に従事した。張が率いる集団はロシア軍に雇われていたが、一方で日本軍にも雇われ、日本軍の情報をロシア軍に流している。言わばロシア軍の二重スパイであったわけであるが、張がもたらした情報が奉天会戦におけるロシア軍の勝利の一因となったとも言われている。
日露戦争の結果、日本は遼東半島を除く満洲をロシアの勢力圏として、ロシアは韓国を日本の勢力圏として相互に承認することとなり、ロシアは本格的な満洲経営に乗り出した。事実上ロシアの国策会社であった東清鉄道沿線は治外法権が認められ、ロシア軍の守備隊が駐留した。
一方で清朝の王朝の故地であり帝都・北京にも近い満洲の支配を強化すべく、奉天吉林黒竜江の三省を置き、これらを東三省として総督を任命した。張作霖と彼の率いる一党も清の官兵として総督の指揮下に入った。露清両国の支配地域が複雑に入り組む満洲の地で、張はその間に立ち調整役となることで富と権力を蓄えた。
一九一〇年、辛亥革命が勃発した際、張も東三省総督・趙爾撰の下で革命勢力と戦っている。一九一一年に清朝が滅亡すると、趙爾撰がそのまま奉天都督となり張作霖も陸軍中将に任命された。この時期、張は満洲で最大の武力を有し、在地勢力を代表する存在となっていたが、一九一六年に北京政府の大総統であった袁世凱が死去すると、趙爾撰に代わって奉天都督となっていた段芝貴を失脚させ、奉天省の支配権を獲得した(奉天軍閥)。一九一九年までには吉林黒竜江省にまで勢力を拡大し、事実上の満洲の支配者となった。
そんな中、ロシアでは革命が起こったのである。

満洲・シベリア出兵

 日露戦争後にロシア帝国初代首相に就任したウィッテは、満洲の地に諸外国からの投資を呼び込むことで、疲弊したロシアの経済・財政を立て直す起爆剤としようとした。その対象は主として日本とイギリス、それに合衆国であった。一国の投資に依存したのでは「軒を貸して母屋を乗っ取られる」事態にもなりかねず、三国に投資させることで互いに牽制させようとしたのだろう。
 ロシア革命勃発当時、ロシアを除けば満洲にもっとも大きな権益を有していたのは、もちろん地理的にも近い日本である。日露戦争で辛うじて遼東半島を守り切ったことを認められ、その租借権をロシアから継承していたから、旅順・大連の港から石炭や鉄鉱石などの資源、あるいは満洲の工場で安価に製造した繊維製品や雑貨を日本に輸出することが可能であった。
 満洲には多数の日系企業が進出し、駐在員とその家族を始めとする数千から一万の邦人が居住し、そのコミュニティの規模は江蘇から広東にかけての中国沿岸部、長江流域に次いだ。また、イギリスと合衆国も規模こそ違えど、多数の自国民が居住していることに代わりはなかった。ロシア革命はそのような状況の中で起こった。
 一九一七(大正六)年の二月革命によってニコライ二世が退位し、ロマノフ朝は滅亡した。その後に成立した臨時政府も同年に再び起こった一〇月革命によって倒されると、その混乱の余波は満洲の地にも及んだ。東清鉄道とその付属地では守備隊の一部が革命勢力に同調して叛乱。ロシア軍同士で相撃つ事態となった。さらにボリシェビキ政権を恐れて満洲に逃れて来た者、あるいは満洲を経由して反ボリシェビキ派や臨時政府の残党が新政権を樹立した、ロシア領アメリカに樹立した新政権に共鳴して露米へ渡る者などが入り乱れ、満洲は混乱の極みとなった。
 もはやロシア軍に外国人居留民の生命・財産の保護を期待することは難しく、満洲に多くの自国民が居住している日・英・米の三国は出兵してそれを保護する以外にないように思われた。しかし、三国の内のいずれかが自国民の保護を口実に大兵力をもって出兵し、満洲をそのまま占領してしまうのではないか、という疑念は互いにぬぐい難く、三国は互いに牽制し合い、事態は膠着したのである(特に日英と合衆国の間の不信は深刻であった)。
 ちなみに日本では出兵に対し、大別して積極論と消極論の二つが対立していた。すなわち積極論とは合衆国(あるいはイギリスも)の意向に関係なく、居留民保護のために日本単独でも出兵すべしという意見であり、当時の与党であった大隈重信率いる憲政党を中心としていた。対して消極論とは、出兵は必要であるとしてもそのためにイギリスや合衆国との関係を悪化させるべきではなく、両国と協定を結んだうえでの出兵を唱えていた。こちらは野党の原敬率いる国民自由党が主であった。一九一八(大正七年)五月の総選挙で国民自由党が勝利し、第一次原敬内閣が発足したことで日本政府の方針は英米と協定した上での出兵となった。
 事態が動いたのは同年五月、チェコ軍団の蜂起がきっかけであった。チェコ軍団はロシア帝国オーストリアハンガリー軍のチェコ人捕虜を集めて編成した義勇軍で、ロシア帝国崩壊後はフランス軍の指揮下に置かれていた。チェコ軍団は当初、武装解除の上欧州からウラジオストクに送られるはずであったが、西部シベリアのチェリャンビンスク駅で起きた、チェコ軍団兵とハンガリー兵の乱闘をきっかけにチェコ軍団が蜂起したのである。
 革命の波及を恐れ、ロシア革命に干渉する機をうかがっていた欧州各国はこれを奇貨とし、「チェコ軍団の救出」を名目に西部シベリアへの出兵を相次いで決めた。後に「シベリア出兵」と呼ばれる干渉戦争の始まりである。シベリアへの共同出兵の流れができたことで、日・英・米の各政府は共同で東部シベリアおよび満洲への出兵を決定した。兵力は東部シベリア・満洲あわせて一万人以内とし、協定を締結したのである。ゆえに日本ではこの出兵のことを「満洲・シベリア出兵」と呼んでいる。
 韓国駐留軍から派遣された日本軍の第一陣が鴨緑江を越え、満洲へ入ったのは一九一八年八月のことである。日・英・米の派遣軍は奉天長春、哈爾浜などの満洲の主要都市を次々占領していった。

満洲自治政府の成立

 もはや革命政権の優位が動かし難いことやチェコ軍団の救出という、当初の目的を達成したことで列国は一九二〇(大正九)年までには相次いで撤兵していった。日・英・米の三国もロシア領内からは兵を引いていたが、満洲には駐留を続けていた。満洲の情勢も張作霖奉天軍閥が全域に勢力を伸ばしたこともあり、平穏を取り戻していたのだが、三ヶ国は互いに牽制し合い、撤兵をしていなかったのである。一九二二年までの間に日・英・米、それに中華民国、ロシア領アメリカに成立した露米政権との間で、二度の協議が持たれていたが、いずれも不調に終わっている。
 交渉の焦点は撤兵後の満洲の管理にあった。もちろん満洲の主権は少なくとも形式的には中華民国にあったが、袁世凱死去後の軍閥内戦のただ中にあり、実際問題として管理能力はなかった。
また、旧ロシア帝国満洲に有していた利権をだれが継承するのかというのも問題であった。新たに成立したソビエト連邦、露米政権ともに自らがロシア帝国の後継国家であるとし、その権利を主張した。ソ連に権利を継承させることは日英米中華民国ともに肯じ得ず、少なくとも形式的には露米政権に継がせるとしても、同政権はこの時点では北辺に成立した弱小政権に過ぎず、その前途ははなはだ心もとなかった。
 そこで日英は国際連盟の管理下に置くことを主張した。しかし、合衆国としてはそもそも連盟に加盟しておらず、日英が常任理事国を務める国際連盟の管理下に置くことは結局、日英の実質的な管理を認めることになるのを懸念し、当事国による共同の管理委員会の設置を主張した。もちろん中華民国は自身の主権を主張し、三者三様の主張が平行線をたどった。もはや意義のない出兵に各国の国内世論も批判的になっていたが、事態は膠着状態に陥っていた。
 変化は結果的にみれば一人の外交官がもたらした。まだ四〇代だというのに薄くなった頭髪、ふくよかな体躯にわけもなく不機嫌そうに口元が歪んでいるが、イギリス製の瀟洒な背広を粋に着こなしているその姿は、外交官というよりマフィアのボスといった負風貌であった。一九二二(大正一一)年三月、後に外相となり日本外交史に名を残す吉田茂が、奉天総領事に着任したのである。
 奉天赴任前、吉田の上司である外相・内田康哉は「満洲撤兵の交渉をまとめるよう」訓令した(撤兵交渉の日本全権は奉天総領事が務めていた)。奉天に着任した吉田は、まず張作霖への会見を申し入れた。数回に渡る会談の詳細は今に伝わっていないが、この過程で両者は一定の合意に達したものと思われる。その上で吉田は英米露、中華民国の交渉責任者に撤兵交渉の再開を呼びかけ、会議に奉天軍閥の代表を加えることを主張した。その際に彼はこう付け加えた「自分に事態を解決する腹案がある」と。
再開された交渉の席上で吉田が提示した案は次のようなものであった。「中華民国の主権の下で奉天吉林黒竜江の三省を統治する自治政府をつくり、その首班は張作霖氏が務める」と。その上で満洲の治安・防衛の責任はこの自治政府が負い、いかなる外国軍も満洲に駐留しないことを協定する、とつけくわえた。それまでの交渉をがらりと変えるような案であったが、考えてみれば現実に即した考えでもあった。現在、満洲の実質的な支配者は張作霖であり、治安もそれによって維持されている面が大きい。吉田案はいわば現状を追認し、それに関係国の承認する自治政府という公式の枠組みを与えるものであった。満洲域内に外国軍の駐留を認めないとすることで、外国の干渉の可能性を排除でき、自治政府中華民国の主権下に置くとすることで、中華民国の面子も立つのである。英米露中の各国はこの案を少なくとも消極的に支持した。各国ともこの不毛な交渉を終わらせるきっかけを探していたのである。
こうして一九二二年七月七日、日本・イギリス・合衆国・ロシア・中華民国、そして奉天軍閥改め満洲自治政府の各代表が「奉天条約」に調印した。そこには満洲自治政府を設立すること、満洲自治政府は独自の軍と警察を有するが山海関を越えて進軍しないこと、外国軍は日・英・米・露・中・満洲自治政府の同意なく満洲域内に立ち入らないことなどが定められた。ちなみに東清鉄道の利権は維持されるが、沿線の治外法権は撤廃され、ロシアの守備軍も廃止されることになった。
こうして張作霖満洲支配は列強からも事実上の公認を得、現在も存続する満洲自治政府が成立した。張作霖はこれから一七年後に訪れるその死まで、満洲の支配者として君臨し続けることになるのである。