小説仮置き場

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軍縮と一二使徒 ―ロンドン海軍軍縮条約―

ロンドン海軍軍縮会議
 
 第一次世界大戦終結し、世界は平穏を取り戻した。それは結果的にみれば戦争と戦争の谷間に生じた、ささやかな平和ではあったが、その束の間の平和の間にいくつかの国は史上空前の繁栄を謳歌したのである。だれともなく呼ばれた「黄金の二〇年代」と―。
 その繁栄と平和の二〇年代の最初を飾るのは、ある意味でそれにふさわしい出来事であった。人類史上初の多国籍間による軍縮条約「ロンドン海軍軍縮条約」の締結である。
 最初にそれを提唱したのはイギリス首相ロイド・ジョージであった。当時は第一次世界大戦前から続く海軍軍拡競争のただ中にあった。たとえば提唱国のイギリスは艦隊整備において「二国標準主義」を掲げていた。これは世界第二位と第三位の海軍国をあわせたものを上回るだけの海軍力を保持するというものであったが、後に世界第二位の海軍国(具体的にはドイツ)との相対的な国力差の縮小により実現不可能になり、「世界第二位の海軍の二倍の海軍力を保持する」方針に改められた。
 そのドイツにおいては第一次世界大戦によって退位したヴィルヘルム二世帝と海軍大臣ティルピッツによって、三次にわたる「艦隊法」が制定された。これは最終的には戦艦四一隻、巡洋戦艦二〇隻を基幹とする艦隊を整備するという大計画で、それは完全ではないにせよ実現し、「高海艦隊」として結実した。第一次世界大戦の勃発時、ドイツ海軍はイギリスの六割に匹敵する戦力を手にしていた。
 また合衆国は策定時の海軍長官の名を取って、「ダニエルズ・プラン」と通称される艦隊整備計画を進めていた。これは一九二一年を目標として戦艦五二隻、巡洋戦艦六隻、装甲巡洋艦一〇隻等を整備するというものであった。
 日本においては著名な「八八艦隊計画」が立案されていた。これはその名の通り戦艦八隻と巡洋戦艦八隻を建造するというもので、しかもその艦齢を八年以内とするという計画であった。
 その他、ロシア、フランス、南部連合など列強各国で様々な海軍軍拡計画が立案されていたが、上記のものを一読しただけでわかるように、それは国家の財政的自殺行為であり、「国家のために海軍がある」のではなく、「海軍のために国家がある」ようにならしめる、少なくとも現代からみれば、ある種の狂気的な計画であったといえよう。また、列強間の海軍拡大競争そのものが、大戦を誘発した一つの原因であったことも否定しがたいであろう。
 こうした破滅的軍拡競争は、大戦前はもちろん、その後においても続けられていたのであるが、真っ先に音を上げたのが大戦によって疲弊したイギリスであった(ドイツは大戦末期の政変によって軍縮路線に転じており、ロシアについては国自体が消滅した)。海軍軍拡はこれ以上国力の許容するところではなかったが、一国で軍縮に転ずることは、仮想敵国(この場合は合衆国)とのバランスの上から是認しがたかった。そこで、「次の戦争の抑止」や「多国間協調による平和の実現」といったことを大義名分として、列強諸国が足並みそろえての海軍軍縮を提案したのである。
 実はこの提案は、大戦の直接的被害がなかった国々、もっというならば大戦をきっかけとして国力を伸張させた国々にとっても渡りに船であった。具体的には日本、合衆国、そして南部連合のことであるが、これらの国々とて冒険的な海軍軍拡が多大な負担であり、遅かれ早かれ限界に達するであろうことに気づき始めていた。ただ、将来敵国になるかもしれぬ国がそれを続ける限り、自分だけ中止するわけにもいかなかっただけのことであった。
 かくして一九二〇(大正九)年一一月、イギリスの首都ロンドンに日本、イギリス、合衆国、南部連合、ドイツ、フランス、イタリアの代表が参集し、「第一次ロンドン海軍軍縮会議」が開催されたのである。日本の全権団は主加藤友三郎海相を主席に、徳川家達元大統領、幣原喜重郎駐英大使を中心に構成されていた。ちなみに加藤は日露戦争時は連合艦隊参謀長であり、日本海海戦の際、海戦終盤に旗艦「三笠」に敵の主砲弾が命中し、東郷平八郎司令長官を含め司令部要員が多数戦死したため自らも負傷しながら指揮を代行し、ロシア艦隊の降伏を見届けるやその場で気絶したという経験の持ち主であった。彼はその痩身から欧米の記者たちから「ろうそく」と呼ばれることになる。
 会議の方針として巡洋戦艦をふくむ戦艦と空母を主力艦として規定し、その保有トン数の上限を国ごとに割り当てるということが予備交渉の段階で決定しており、具体的に各国間の比率を決めることが焦点であった。交渉の初め、日本はイギリスと合衆国の保有枠の八割を主張し、南部連合が五割を主張した。
 ロシアなき後の日本の最大の仮想敵国は合衆国であったが、仮に合衆国と開戦した場合、その主戦場は太平洋が想定された。当時の日英同盟では適用範囲が極東からインドにかけての地域に限定されていたから、日本と合衆国の戦争にイギリスが参戦してくるかどうかは不透明であった。対米八割という比率は、仮に日本単独で合衆国海軍の全力を相手にする場合でも決定的な不利を避けるためのものであった。
 南部連合については言わずもがな、合衆国は建国以来の宿敵であった。合衆国と再び戦争になった場合、主戦場は陸になるとしても自国周辺海域の制海権を維持する必要があった。また、正式ではないにせよ事実上の同盟関係にあるイギリスから、参戦はないにせよその管理下にあるパナマ運河の封鎖くらいの協力は期待できた。その場合、合衆国海軍の太平洋にある艦隊が大西洋まで回航されてくるまでの時間差を利用した各個撃破作戦が成立し得る最低限の比率が対米五割であった。
 しかし、合衆国にとってこの比率は到底容認し得ないものであった。合衆国にしてみれば最悪の場合、日本、イギリス、南部連合の三国を同時に相手にせねばならなかった。イギリスの海軍は全世界に散らばっているため、差し当たり相手にせねばならないのは全体の半分であるとしても、日本と南部連合は全力を投入してくる可能性が高いから、日本と南部連合の要求を認めると自国の二倍近い海軍力と戦うことになり得た。許容できる不利の限界を超えていたのである。
 また、もう一つの争点として日本の新鋭戦艦「土佐」の取り扱いがあった。日本は当時八八艦隊計画の一環として、四〇センチ砲八門搭載の長門級戦艦「長門」「陸奥」、同一〇門搭載の加賀級戦艦「加賀」「土佐」を保有していた。実は「土佐」は条約成立を見越して未完成部分が残っているものを「完成艦」として日本海軍に引き渡されたばかりであった。条約交渉では、条約成立時に未完成の艦は放棄するようにする方針であったが、合衆国は「土佐」を未完成艦であるとして放棄するよう、日本側に迫ったのである。
 日本としては仮に保有トン数で譲歩するのであれば、一隻でも多くの四〇センチ砲搭載艦を保有し、質的に合衆国海軍に対抗したいところであった。当時すでに完成していた世界の四〇センチ砲搭載艦は日本の四隻だけであり、建造中のものを含めても合衆国の四隻があるだけであったから、大きなアドバンテージとなり得た。
 保有トン数か「土佐」の保有かで日米、そして南部連合は互いに譲らず、一時は交渉の決裂さえ危ぶまれた(現に合衆国の新聞には先走ってそのように報じたものがあった)。交渉の流れを変えたのはイギリスであった。軍縮会議と同じ頃、同じくロンドンでは日英同盟の延長のための交渉がなされていたのだが、その席でイギリスは日英同盟の適用地域限定しないことを提案してきたのである(余談ではあるが、幣原駐英大使はこちらの交渉を主に担当していたので、軍縮会議にはあまり参加していなかったという説もある)。もっともこれに関しては日英同盟の適用範囲拡大は日本側から提案されたという説も最近出できており、今後の研究が待たれるところである。
 いずれにせよ日英同盟が太平洋地域においても有効であるならば、日米開戦となった場合でもイギリスの参戦が期待でき、日本としては保有トン数に妥協の余地が生まれる。また、イギリスは南部連合に対しても「合衆国の一方的な侵攻を受けた場合に限り」参戦する密約を持ちかけた。これで南部連合にも保有トン数にこだわる理由がなくなった。
 イギリスのこれらの動きはもちろん表沙汰にならなかったが、日本の加藤首席全権が保有トン数の対英米七割、「土佐」の保有を条件に合衆国が建造中のコロラド級戦艦四隻の保有を認め、それらが全て太平洋に配備されてもよい、という妥協案を提示。南部連合代表も保有トン数の対米四割への譲歩を表明した。
 合衆国としては満足と呼べる内容ではなかったが、交渉を決裂させ、無制限の軍拡競争に突入することは、財政と世論の許容するところではなかった。交渉開始から三ヶ月後の一九二一(大正一〇)年二月、七ヶ国の代表により「ロンドン海軍軍縮条約」が調印された。条約の主な内容は以下の通りである。
①主力艦の保有比率は英米一〇、日本八、南部連合四、独仏伊三.三四とする。
保有する戦艦の最大トン数(基準排水量)は三.五トン、搭載し得る艦砲は最大一六インチ(四〇.六センチ)までとする。
③日本は長門加賀級戦艦各二隻を保有し、合衆国はコロラド級戦艦四隻を保有することができる。また、イギリスと南部連合も四〇センチ砲搭載艦を二隻まで建造できる(南部連合は後にイギリスからネルソン級戦艦二隻を購入した。ロバート・E・リー級戦艦である)。
④建造中止となった戦艦の艦体を空母等に改装することは差し支えない(これにより日本は天城級巡洋戦艦二隻を、合衆国はレキシントン級巡洋戦艦二隻をそれぞれ空母に改装した)。
⑤条約の発効は翌一九二三年からとし、期限は一〇年とする。

イギリスの水面下での動きはマスコミに伝わらなかったので、表面的には最初に譲歩を表明した日本の加藤全権が「条約を救った英雄」としてもてはやされ、「世界に希望の光をもたらすろうそく」、「アドミラル・シテイツマン(提督政治家)」などと呼ばれた。
 結果的にみればこの条約でもっとも得をしたのは四〇センチ砲戦艦四隻の保有を認められた日本と合衆国であった。反対にイギリスは四〇センチ砲戦艦の保有を二隻までしか認められず、また事実上対米参戦を義務付けられる結果となり、もっとも高い代償を払った形となった。条約交渉に随行員として参加していたある英海軍の大佐は、この条約をみて「大英帝国の落日の象徴」と評したという。
 ロンドン海軍軍縮条約でその存在が認められた一二隻の四〇センチ砲戦艦は、新約聖書になぞらえて後に「一二使徒(トウェルヴ・アポストレス)」と呼ばれた。人々はそれが戦争ではなく、平和の使徒となることを願望したのである―。